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ブログ「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。気になるニュースや雑感・着想のメモ等(エントリーへのリンク付きTBかエキサイトブログのみTB可です。)
by zarathustra1883
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定額給付金についての覚書

定額給付金は財政政策としては無意味ではないのだが、金額が少ないことが問題である。

新しい買い物ではなく日用品に消えてしまう場合がかなりあるということがしばしば報道されているが、それはその通りであろう。それでも新規の消費に全く繋がらないのではない限り、つまり、少しでも市場での金の流通速度が上がるのであれば意味が全くないとは言えない。

ただ、効果を挙げるためにはもっと金額を増やす必要があるだろう。例えば一人5万円くらいでもよい。一人に対して5万円の給付がなされれば、それを生活費に充てる場合、一ヶ月で全て使い切ることは難しいだろう(もちろん、給料や年金などに一切手をつけないのならば、使い切るだろうが)。こうした給付金は、そのようになって初めて、景気対策としての効果が上がってくるのである。

投入される金額がある閾値を超えると、景気対策としての効果が急激に上がるポイントが――これは一つとは限らない――あるはずである。その閾値以上の金額を給付すれば、景気対策としての意味がそれなりに出てくる。もちろん、お金は他の多くの財と異なり、いくらでも保存がきくという性質があるから、それでもタンス預金や銀行預金として退蔵されることはあるかも知れないが、それでも経済効果はゼロではない。

もちろん、この政策を実行するためには財政的な赤字が一時的に膨らむことが問題だし、後日税金としてこれが回収されることになるのだが、税として徴収を行うにしても、それを回収できるような租税体系になっていないところに問題がある。景気が回復し、企業や労働者にある程度の儲けが出ているときに不況期の歳出拡大を補うことが出来なければならないのだが、日本の税制はそのようになっていない。税率が過度にフラット化している、すなわち累進的な構造になっていないからである。

ちなみに、給付金で金が出ても後で消費税が増額されるから意味がないという類の意見はおかしい。この発想の中には市場が介在していない。冷静な判断を欠く感情的な論であるとしか思えない。

また、少し前にはてブがたくさんつけられていた、あるブログのエントリーで「累進性を高める形での所得税の増税は難しい」という主旨の意見を見たのだが、その根拠は日本の場合、納税者のほとんどが最低税率のブラケットにいるからだという。そのブログ主の考えでは、累進課税を強化してもほんの僅かな人にしか増税にならないというのである。だから、所得税の改革はサラリーマン増税にならざるを得ないとその人は主張していた。

一見もっともらしいが、それは重要な論点が抜けているからである。すなわち、「分離課税を撤廃せよ」という基本的な論点が抜けているのである。高所得者の高所得たる所以である種類の所得は通常の給与所得と分離されて極端に低い税率で課税されているという実態をその人は見ていないように思われる。(累進性を高めろと私が言う場合、当然のこととして、この低い税率が適用されているものを通常の所得と一本化することが含まれている。)これを総合課税に統合してしまえば、上位の税率ブラケットに移行する人の割合はそれなりに増えるのである。

また、「サラリーマン」を狙い撃ちにすることは政治的に不可能であるという理由でサラリーマン増税になるから所得税増税は難しいと思うとそのエントリーには書かれているが、サラリーマンを狙い撃ちにしなくとも、社会保険料控除などの所得控除を廃止縮小するなどの方法でも課税最低限を実質的に引き下げて課税される人の範囲を広げることができるのである。

このように、そのブログで語られていた内容には問題が多いのだが、それでも、そのエントリーを読んで少し参考になったのは、確かに所得税を税制改革の主眼においた場合、給与所得控除は最も狙われやすい位置にあるという論点である。一般庶民は税に対する知識が極めて低いので、いい加減な議論がまかり通る傾向が強いから、「正しい議論」よりも「視聴者≒納税者にとって都合が良いと感覚的に感じられる言説」が受け入れられやすい。これは租税教育をきちんと行っていないことのツケでもある。
# by zarathustra1883 | 2009-03-06 22:09 | 今日のひとこと

依存的な世論?

麻生内閣 支持11%…政権運営さらに窮地 本社世論調査

2月22日22時55分配信 毎日新聞

依存的な世論?_b0074291_22343732.jpg

麻生内閣の支持率の推移


 毎日新聞は21、22両日、電話による全国世論調査を実施した。麻生内閣の支持率は1月の前回調査比8ポイント下落の11%で、現在と同じ質問形式にした1949年以降、89年3月の竹下登内閣、01年2月の森喜朗内閣の各9%に次ぐワースト3位の低水準となった。麻生太郎首相がいつまで政権を担当すべきかを尋ねた質問でも「今すぐ辞めるべきだ」との回答が39%に達し、首相の政権運営は一層窮地に陥った。

 不支持率は前回比8ポイント増の73%で、前回記録した01年2月の森内閣の75%に次ぐワースト2位を更新した。支持率は昨年9月の内閣発足直後には45%。その後は同10月に不支持率に逆転を許すなど調査のたびに下落し、当初の4分の1にまで落ち込んだ。

 不支持理由は「首相の指導力に期待できないから」が最多で前回比11ポイント増の44%。支持理由の「首相の指導力に期待できるから」も3ポイント減の9%で、首相の指導力を疑問視する世論がうかがえた。

 支持率下落に歯止めがかからないのは、中川昭一前財務・金融担当相の「もうろう会見」による引責辞任も要因とみられ、中川氏を閣僚に任命した首相の責任については「責任がある」が58%で、「責任はない」の37%を大きく上回った。

 「麻生首相と民主党の小沢一郎代表のどちらが首相にふさわしいか」との質問への回答は、麻生首相が前回比8ポイント減の8%。小沢代表は横ばいの25%で、差は17ポイントに広がった。

 政党支持率は自民党が前回と同じ20%、民主党が3ポイント増の29%。4回連続で民主党が自民党を上回った。「次の衆院選で自民党と民主党のどちらに勝ってほしいか」という質問への回答も自民党が5ポイント減の22%、民主党は1ポイント増の51%だった。

 政府・与党が政権浮揚の材料として期待する定額給付金に対しては、「評価する」が2ポイント減の20%、「評価しない」が1ポイント減の73%で、理解は広がっていないことを示した。

 首相の政権担当時期に関する回答は、「今すぐ辞めるべきだ」のほか、「来年度予算の成立まで続けるべきだ」39%、「夏ごろまで続けるべきだ」7%、「できるだけ長く続けるべきだ」8%だった。【坂口裕彦】

最終更新:2月23日10時8分
毎日新聞


世論調査から読み取れる点で重要なのは、民主党が積極的な支持を取り付けていないということである。

昨今の支持率の低迷も、ひたすらに政府と自民党が失点を重ねているだけであり、民主党や他の野党は支持を広げているとは言えない。もちろん、政府と自民党の動きを民主党をはじめとする野党が止めていることが、政府や自民党への支持率の低下の重要な要因となっているのだが。政府と自民党の支持率が下がることは初めからわかっていた。私が少し恐れたのは、首相が変わった直後の、瞬間的に支持率が高まっているときに解散総選挙を行われることだったが、それが先送りされたことで支持率の低迷はわかりきったことだった。それについては麻生内閣の支持率が高かったときに書いている

ただ、問題は、野党も支持を受けていないということである。そもそも民主党がどのような方向に進もうとしているのかが以前にも増して見えにくくなっていると感じる。「生活が第一」というなら、それに見合ったことをして欲しいものだ。党利党略を超えて自民党を巻き込んだ動きもありうるはずなのに、それがない。それが自民党を利することがあるとしても、「生活が第一」ならそうすべきなのだが、それはしない。

積極的な支持がない野党が政権交代をなしとげても、恐らく昨今の自民党と大差ない支持しかえられないのではないだろうか。

問題として大きいのは、有権者達がどのような政策がとられるべきなのか、明確にイメージできていないということであり、ビジョンを与える理論・言説が流布していないことであろう。何をすべきかがわからないから、政策の内容ではなく「リーダーシップ」だけが期待されるのであろう。有権者自身が望ましい政策を明確化できていないこととリーダーシップを求めることは、表裏をなす現象であるように思われる。つまり、他者に依存しようとする傾向が非常に強いことが、世論の傾向である。
# by zarathustra1883 | 2009-02-23 22:54 | 政治ニュース

政治的成熟について

先ほどメインブログで「麻生内閣への批判や不満が蔓延する中で、新自由主義的な方向からの批判の声が大きくなっている」ことへの懸念を表明した。

日本の有権者の大部分は、ある政策を提示された場合に、その効果を読み取れるほど政治的に成熟していないということがこうした懸念の背景の一つとしてある。

あえて「政治的に成熟していない」と書いたが、要するに有権者の大部分は「政治的幼児」に等しいということである。

しかし、私はその事実を以って有権者を非難しようというわけではない。なぜならば、デモクラシーとはそもそもそのレベルの人々で何とか回していく体制だからである。(だからこそ、近代以前のデモクラシーに対する議論は批判的に扱われることも多かったのであり、それを多少ともまともにするために、18~19世紀以降、ナショナル・デモクラシーを普及させていく過程で、政府による公的な普通教育が実施されるようになってきたのが歴史的経緯だからである。)

実際、政治的に成熟した見解を保持できるようになるためには、相応の社会科学的な素養が必要になってくるのである。例えば、情報を収集し分析する能力や過去の広範な歴史的事態との思考実験を伴う比較をする訓練がなされていなければならないし、また、複数の人間観を適用しながら同時に環境条件を思考により操作して先を見通す訓練も必要である。しかし、こうしたことを教育されて叩き込まれて(マスターして)いる人間は恐らく全有権者の数パーセントにすぎないだろう。下手をすると1%未満であり、どう高く見積もっても10%には届きようがない。

ここにデモクラシーの除去できない危うさが存在する。
# by zarathustra1883 | 2009-02-15 23:55 | 今日のひとこと

政治家の器量

オバマ大統領「私も間違えます」 市民の追及にたじたじ

2009年2月10日12時47分

 【エルクハート(米インディアナ州)=勝田敏彦】オバマ大統領は9日昼、就任後初めてとなる市民との直接対話集会(タウンミーティング)に臨んだ。会場の中西部インディアナ州エルクハートは、失業率が15%を超える全米最悪の街。聴衆から厳しい追及が飛び出し、オバマ氏がたじろぐ場面もあった。

 ホワイトハウスは景気対策の緊急性を演出するため、集会で、最近レイオフされた7人の子持ちの男性(62)を登壇させた。だが質疑応答は筋書きなしで進められ、厳しい質問も出た。

 「あなたが閣僚に指名した人たちはお金や税金の管理もできない。信用できないじゃありませんか」

 納税漏れから厚生長官指名を辞退したダシュル元上院院内総務らを指したもの。約2500人の聴衆は「そんな質問までするの?」とブーイングしたが、オバマ氏はそれをさえぎり、「疑問はもっともで、批判も当たっています。私は間違いを犯しました」と堂々と謝った。

 その上で「私たちはホワイトハウスにかつてないほど厳しい倫理基準を作った。でも私たちも完璧(かんぺき)ではないんです」と話した。

 入場するために2時間半も並んだという小学校教師ケリー・ウェルディーさん(31)は、オバマ氏について「誰にも間違いはある。でも幸運なことに誰よりも間違った理由をよく吟味している」と好意的だった。

オバマ大統領の器量を感じさせる記事である。

もちろん、人格的および道徳的に器量が優れていたとしても、それと政治手腕(政策立案の能力や政治闘争に勝利しながらそこに引きずられすぎないこと、政策を適切に実行するための管理の手腕等)は一致するものではないが。
# by zarathustra1883 | 2009-02-10 23:52 | 世界情勢・外交

ヤバい――評価の転換

やばいとは、あぶない。不都合な状況が予想されるさま。1980年代頃から若者言葉で「格好悪い」の意味で用いられるようになり、90年代から「凄い」の意味が派生し、肯定・否定問わず用いられるようになった。


以上は、ウェブ上の「語源由来辞典」からの抜書きである。

近年「ヤバい」という言葉の意味の肯定的な用法が比較的若い年齢層(壮年未満?)を中心に広がっている。

いずれの意味も、ある想定された常識的な状態からの乖離を示している点では共通しているが、評価という点では最近10年程度について、肯定的な評価を伴う用法が急速に広がったことは注目に値する。

80年代にポストモダニズムが言論界の一部で流行したが、そこで見られた相対主義と通じるものが感じられる。また、90年代以降の政治の日本の政治では「リーダーシップ」が熱望される傾向があることとも通じているように感じられる。

事柄自体の「常識的に流布している」価値は不問に付し、事柄への評価は回避したまま、「常識的に流布している」見解を疑うこと、その「常識」を特権的な地位から引き摺り下ろすこと自体に価値を見いだし「相対化」しようとするポストモダニズム的言説と、政策の内容自体ではなく、政策の内容への評価は行わないまま、「通常のリーダー」ではできないことを強力に推し進めること自体を価値ありと見做す政治的意識。

いずれも内容(事柄、政策)についての評価は行わず、むしろ、その内容はどのようなものであれ、内容の価値は平等であると要請ないし想定している。それに対して形式的な面で、発話者が想定した「常識」ないし「通常」からの乖離(の程度)だけが肯定的評価の対象となっている。

「ヤバい」という言葉の肯定的な用法にはこれと同じ構造があるように思われる。かつては「通常」からネガティブな方向に乖離していることについて指示する用語であったが、乖離の方向がどのようなものであってもネガティブだと評価されなくなり、価値の平板化(内容の如何にかかわらず平等な価値があるという評価)が進み、「通常」からの乖離のみが肯定的な評価の対象として捉えられているからである。

私がこの言葉について書いてみたのは、中国語の「厉害」lihaiという語にも「ヤバい」と同じような用法が最近出てきているのかもしれないという仮説を立ててみたからである。これも英語に訳せばterribleであり、日本語では「ひどい」というような意味が辞書には出てくるが、実際の会話では「すごい」の意味で使われていたからである。(もっとも、英語のterribleには「とても」のような意味もあるが、どちらかというとネガティブなニュアンスが強いのではないかと私は思っている。)

まぁ、あとはニーチェの著書を久しぶりに読んでいることもあるかもしれない。彼は彼が嫌っているものについての価値を転倒させようとすることに腐心した思想家であり、ポストモダニズムにも甚大な影響を与えたと思われるが、いずれにせよ、彼の哲学のかなりの部分は価値評価のあり方について語っていることは間違いなく、そうしたことについての思考が触発されるものがある。ニーチェの考えが正しいとは思わないとしても。
# by zarathustra1883 | 2009-02-05 03:12 | 思想