人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ブログ「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。気になるニュースや雑感・着想のメモ等(エントリーへのリンク付きTBかエキサイトブログのみTB可です。)
by zarathustra1883
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
カテゴリ
全体
政治ニュース
経済・財政
軍事・防衛
今日のひとこと
日記
思想
歴史・歴史学
世界情勢・外交
イラン
朝鮮半島
中国
社会
福祉
未分類
以前の記事
2024年 01月
2010年 06月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
最新のトラックバック
リンク
フォロー中のブログ
検索
タグ
(48)
(40)
(39)
(31)
(29)
(26)
(25)
(23)
(22)
(21)
(19)
(19)
(19)
(18)
(18)
(14)
(11)
(9)
(8)
(7)
ライフログ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


噛み合わない議論について一言

おやおや。

  「今度は負担概念を混同していると言い出しましたね。」

だそうで。

私は「負担とは何か?」のエントリーでこれを新たに言い出したのではなく、前に言っていたことを伝えるやり方(表現やアプローチ)を変えたのである。もともとの批判文では繰りかえし、「種類が違うものを同列に扱うな」ということを言っている。

以下に実例をあげるが、特にわかりやすいのは2つめ以降の文だろう。「支出の多さ」と「純負担=支払-受益」は違うのに、同列に並べるのはおかしい、というのが論点2と3で言っていたことだ。

◆日本では「支払いの割に社会保障として戻ってくるものが少ない」としかいえない。それなのに、結論は「支払いの割に全体として戻ってくるものが少ない」と言っていることになる

◆純負担を用いて「高負担だ」と仮に言えたとしても、それに付け加えて、「サービス水準が低い」という批判を並べることはできない

◆「高負担」とはこの純負担が大きいことを言っていた。ところが、ここでは一転して、給付のことしか言っていない

◆「高負担」という際には、国民純負担、つまり「差し引きしたもの」で言っておきながら、「低サービス」という際には、「差し引きではなく公的サービス給付の単純な少なさ」を持ち出すとすれば、明らかにおかしい。つまり、「税負担の単純な少なさ」がここでだけ無視されているからだ。

◆国民純負担をもって国民の負担が高いかどうかを判定しようとする立場に立つならば、国債は負担には算入できない

まぁ、今回、表現の仕方やアプローチを変えたら、こちらの主張(負担概念を混同していると私が言っていること)は理解してもらったようだから、私としては参考にはなった。

★もう一点、おかしな点を突いておこう。

最初、彼はこう言っていた。

批判者は『「国民負担率だけで判断してはいけない」というところまでは私も同意する』だそうだが、私の主張は違う。「国民負担率」はダマシ数字である、と否定しているのである。


このようにして「国民負担率」を否定した上で、国民純負担率こそ「本当の負担率」だとしているわけだ。

しかし、私が補足のエントリーで「それは財務省と全く同じダマシをやっているということに気づかないのだろうか?たった一つの指標で財政や税負担の全体像をしっかり把握などできるのだろうか?」と述べると、次のようにトーンダウンした。

私の書いていることを批判する余地はいくらでもあります。例えば、この負担概念ではこういうことを無視しているんじゃないか、とね。私もそうやって財務省の国民負担率を批判しているわけです。


おいおい、全然言ってること違うじゃねーか?(爆)

で、本文はどうなっていたかというと、

もちろん官僚の出す数字というのは数字そのものがウソということはない。だから、こんな数字で国民を騙すのか、と聞かれたら、おそらく「数字の解釈は受け取る側の問題」とでもいうだろう。
 それを知っていて、毎年「国民負担率」なる数字を発表し、スウェーデンの数字を付記することを忘れない。こんなダマシがいつまで通用するのか、「国民負担率の賞味期限」は切れることはないのだろうか。


というわけだ。

要するに、私が最初に指摘したこと――国民負担率は意味を限定すれば利用可能である――は正しかったのであり、彼自身が自分の言っていることを正しく理解していなかったのである。私は正しく指摘し、彼は私の指摘を受けて自分の言ったことを正しく理解した、ということである。そんなわけで、読解力がないのはそっちの方だろう、と言いたくもなる。

逆に、私がしたことこそ批判の見本例みたいなもんじゃないか(相手のあやふやな論点を明確にし、相手の認識自体を明晰なものにまで引き上げたのだから)と思うのだが、自分の説を曲げたくないために無理なことを言っているのは見苦しい。

★彼が「負担」の概念を一種類しか使っていないというのは、彼の思い違いだろう。それに、4つの理念型はそのまま現れているとは言っていない。というか、理念型がそのまま現象するわけないだろう。私が新しい方のエントリーで言ったのは、彼の用法では随所で混ざり合っていて、必ずしも純粋に統計的な概念としては使われていない、ということだ。

対案を出せといわんばかりの主張も、私から見れば、そもそも彼の議論は破綻しているのだから、対案を並べるようなものではないわけで、過剰な要求である。つまり、こちらが言っているのは、数字の意味(評価の仕方)が、「ありえないほど大きく間違っている」ということなのだから、こちらが対案(?)を出すような話ではない。(そもそも、意味がわかっているなら、幾らなんでもGDPとNIを間違えるわけがないだろう。

数字で説明してやればよかったとは思うが、論理が破綻してるんだからそちら(論理)で対応するのが常道というものだろう。


★なお、議論の最後には、「私の書いていることは、リンク先をみればわかるが、多くの学者が問題点としてすでに指摘している、枯れた論点である。それをどう解決するかの話ならまだしも、それらの論点が存在しない話であるかのように異を唱えるのは無理だろう」と言って、現代の日本にある問題の解決を出せ、と論点をそらしてきた

私が批判したのは、解決以前の「事実認識」の問題である。教育にせよ国債にせよ、解決のために財政を使う必要があるし、財政自体を変える必要があるが、その現状の認識がおかしいと批判しているわけだ。そして、彼が言う「それら」の中に「重税国家である」という認識は含まれるのか、と聞いたわけだ。しかし、彼に言わせると、「それら」だから「重税国家」は関係ないという論理になるらしい。複数なのだから、含まれるかどうかは当然の疑問なのだが。

だから、勝手に論点を付け加えているのは、むしろ先方なのである。私が問題にしたのは、個別の社会問題ではなく、はじめから事実の認定の問題だったからだ。

そして、事実をどのように捉えるかということが、個別の問題への対応の仕方にも影響を与えるということをはじめから見越した上で批判しているのである。(だから、展望はないんだろう、と確認したのだ。)

★今回のように批判されることは、別のことを書こうとしている人にとっては極めて苦痛であることは理解できる。単に反論が面倒というだけでなく、既に書き終えたことに強制的に縛り付けられることになるのだから。その心境はわかるが、デタラメを書いてダマシているという自分の罪はどうなるのか?ということを考えれば、これくらいの批判をされるのは当然だろう。


★ついでに書くと、彼が「主張を勝手に創作しているからです」というのは、彼が私の書いたことを理解していない以上、そもそも成り立たない。お互い全然理解していないと思っているのだから、もし、相手に何かを言いたければ、その齟齬を解きほぐすところから議論をしなければいけないはずだ。そんな大変なことは、私にはやる気はないが。(だから、敢えて「デフォルメ」したものを書いたという側面もある。もちろん、整理するのに具体的な事例に関わるのは邪魔だからというのが最大の理由だが。)


★私の主たる関心は彼の説の中身にあるのではなく、彼が展開したような(デタラメだが、多くの人にとっては「心地よい」)議論が流布してしまうこと自体にあるから、彼の議論自体を理解するのに、そこまでの労力を割く必要はない。むしろ、それがどのように受容されていくかということを見ることができたのは収穫であり、私としては今回は十分な戦果を上げたので、それなりに満足している。

あとは仕上げの「受益とは何か?」を軽めに書いて、この件は一旦終わりにしよう。


★なお、「メインブログのエントリーへの補足」というエントリーはメインブログと同じく、今後の同種の議論への対応のために今回の議論をデフォルメしたものの草稿だから、今回の議論と完全な対応をさせているわけではない。(だから、固有名はなるべく使わず、随所で「彼ら」と言っている。)ただ、抽象度はメインブログより低い(つまり、生々しい)が。


★数字についても一言書いておく。

数字を使うときは、どの統計のどの数字を使ったのかを明示しないといけない。外国のものである場合は尚更そう言える。一般論として言えるのだが、どうも数字の扱い方がいい加減過ぎるきらいがある。政治経済について発言する人は、もう少しそうしたところをきちんとした方がいいだろう。自戒もこめて書いておく。


「日本は重税国家」という類の言説は歴史修正主義と同類のトンデモである。基本的な構造がそっくりだ。

ある願望を正当化することを目指して、それに都合の良いことを論理的な整合性と無関係に並べ立てて「論証」する。賛同者はその証拠の立証能力などについては全くというほど顧慮しないまま気分に任せて賛同する。個々の事実としての正しさがあるものはあるが、全体の中での意味づけの仕方などが特に甘い点も共通だろう。

俺達はこんなに税金払ってるのに官僚が変なことに使って「消えている」というような発想も、自分は悪くないのに被害を受けているという被害者意識の産物であり、これは歴史修正主義者に見られる特有の被害者意識と底通しているものがある。

この問題はしっかりと掘り下げる価値がある。時機を見てメインブログにエントリーを上げる価値がある。とりわけ、以下の話との関連で重要だろう。

ネオコンとネオリベが大衆的な支持を得てきた90年代以降の流れの根源にあるキーワードの一つは「被害者意識」である。何も悪いことをしていないのに自分を取り巻く状況は悪い方向に向かっているという感覚であり、それに伴う漠然とした「不安」や「不満」であり、それらを解決するために「何をすればいいかわからない」ということを多くの人々が薄々感じている。ここから幾つかの傾向が出てくると見ている。

そのうちの一つとして、何か悪者を見つけると激しくバッシングするという近年の傾向もそれだ。歌手の失言(羊水腐る)というのが話題になっていたが、そうした世相になったこととネオコン、ネオリベが流行ることも共通要素がある。その上、ネットが普及したことによって、情報流通のネットワークに、次数が小さく、スケールフリーであるという特性が強化され、上記の傾向に拍車をかけている。情報の伝わる速度が高まり、一箇所に同時に多くの人がアクセスして攻撃できる環境ができたからだ。

このあたりは追々書きたいと思っていた話だ。この着想がはっきりした(閃いた)のは、今回の一件から得た大きな収穫だ。(以前の同様の議論ではまだ完全に理解していなかったが、今回の件でかなり明確になった。)
by zarathustra1883 | 2008-02-10 18:54 | 日記
<< 自民党のご都合主義 「小さな政府」論の下書き的メモ >>