ブログ「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。気になるニュースや雑感・着想のメモ等(エントリーへのリンク付きTBかエキサイトブログのみTB可です。)
by zarathustra1883
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カテゴリ:思想( 9 )

ヤバい――評価の転換

やばいとは、あぶない。不都合な状況が予想されるさま。1980年代頃から若者言葉で「格好悪い」の意味で用いられるようになり、90年代から「凄い」の意味が派生し、肯定・否定問わず用いられるようになった。


以上は、ウェブ上の「語源由来辞典」からの抜書きである。

近年「ヤバい」という言葉の意味の肯定的な用法が比較的若い年齢層(壮年未満?)を中心に広がっている。

いずれの意味も、ある想定された常識的な状態からの乖離を示している点では共通しているが、評価という点では最近10年程度について、肯定的な評価を伴う用法が急速に広がったことは注目に値する。

80年代にポストモダニズムが言論界の一部で流行したが、そこで見られた相対主義と通じるものが感じられる。また、90年代以降の政治の日本の政治では「リーダーシップ」が熱望される傾向があることとも通じているように感じられる。

事柄自体の「常識的に流布している」価値は不問に付し、事柄への評価は回避したまま、「常識的に流布している」見解を疑うこと、その「常識」を特権的な地位から引き摺り下ろすこと自体に価値を見いだし「相対化」しようとするポストモダニズム的言説と、政策の内容自体ではなく、政策の内容への評価は行わないまま、「通常のリーダー」ではできないことを強力に推し進めること自体を価値ありと見做す政治的意識。

いずれも内容(事柄、政策)についての評価は行わず、むしろ、その内容はどのようなものであれ、内容の価値は平等であると要請ないし想定している。それに対して形式的な面で、発話者が想定した「常識」ないし「通常」からの乖離(の程度)だけが肯定的評価の対象となっている。

「ヤバい」という言葉の肯定的な用法にはこれと同じ構造があるように思われる。かつては「通常」からネガティブな方向に乖離していることについて指示する用語であったが、乖離の方向がどのようなものであってもネガティブだと評価されなくなり、価値の平板化(内容の如何にかかわらず平等な価値があるという評価)が進み、「通常」からの乖離のみが肯定的な評価の対象として捉えられているからである。

私がこの言葉について書いてみたのは、中国語の「厉害」lihaiという語にも「ヤバい」と同じような用法が最近出てきているのかもしれないという仮説を立ててみたからである。これも英語に訳せばterribleであり、日本語では「ひどい」というような意味が辞書には出てくるが、実際の会話では「すごい」の意味で使われていたからである。(もっとも、英語のterribleには「とても」のような意味もあるが、どちらかというとネガティブなニュアンスが強いのではないかと私は思っている。)

まぁ、あとはニーチェの著書を久しぶりに読んでいることもあるかもしれない。彼は彼が嫌っているものについての価値を転倒させようとすることに腐心した思想家であり、ポストモダニズムにも甚大な影響を与えたと思われるが、いずれにせよ、彼の哲学のかなりの部分は価値評価のあり方について語っていることは間違いなく、そうしたことについての思考が触発されるものがある。ニーチェの考えが正しいとは思わないとしても。
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by zarathustra1883 | 2009-02-05 03:12 | 思想

「既得権なき社会」の不可能性にまつわるメモ

「既得権」を非難する言説がある。

既得権を非難する限り、「既得権のない社会」がその背後に理想とされていると言える。「既得権のない社会」は「平等な社会」であろう。しかし、そこで想定されている社会の状態というものは――個人をノードとしたネットワークとして社会を捉えるとき――ランダムグラフのようなネットワークとしての社会を想定しているように思われる。

人間社会の現実のネットワークがランダムグラフのようになることは、私にはどう考えてもありえないように思われる。そのような状態は(現実のものとしては)想像することすらできない。

「既得権」を非難するということは、そうしたありえない社会が実現するまでいつまでも「既得権」を非難し続けなければならないことを意味する。それは終わりなき破壊行為に過ぎない。

しかも、それは単に今あるものを破壊する行為ではない。現実から目をそらすことによって正しく問題を捉えることをも妨げてしまうことによって、望ましい未来を形成するビジョンをも阻害するものであり、未来をも破壊する行為なのである。

「既得権」そのものを否定する議論は、そうした平等性を単なるIdeeとして掲げるだけならば許容してもよいと私は考える。しかし、その程度の批判的な思考すらないままに、「既得権」を叩く議論が横行している。

「既得権」とされているものは、本当に「既得権」なのか?その評価基準は何であり、どのように測定したのか?最低限そうしたものを示した上で、どの程度までの「権力格差」を許容するのか、もっと重要なのはその権力をスケールフリー的な状態にしないためにどのような抑制の方法を取り入れるのか?という議論をするならばまだ分かるのだが。少なくとも私はそのように議論をしていきたいと思う今日この頃である。
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by zarathustra1883 | 2009-01-19 22:28 | 思想

増税論者のつぶやき

最近思うのは、日本政府は増税の機会をまたもや逃したということだ。

麻生は3年後の消費税増税などとも言っているようだが、その時の政権の判断でそれを先延ばしにすることも可能である。さらに言えば、消費税を増税するというのはあまりに安易な方法であり、逆進的でもあるから好ましくない。増額分をすべて地方税として自治体に分配するというのならば、一つの方向性として理解できるが、その場合でも、まずは所得税と法人税を中心として税体系の再構成がなされなければならない。

例えば、以下のようなことである。

①所得税と法人税の行き過ぎたフラット化を正すこと。
②都道府県の法人課税を原則として国税に移し、その分の消費税を都道府県税にするという税源移譲を行うこと。
③所得税の分離課税を原則廃止すること。
④相続税の課税最低限を引き下げ、さらに税率の累進性を高めること。

これらを十分に行ってから消費税に手をつけるべきである。

本来はこうした改革案を2000年代前半には提出し、着手しておくべきだったというのが私の考えであるが、現実はあまりにもそれとかけ離れた新自由主義が跋扈してしまった。

その際、90年代以降、日本社会の新自由主義化が進んだことによって、今回の金融危機によるダメージも大きくなったことは見落としてはならない。これにより経済が、あまりに世界の金融の動きとリンクを強めることとなったからである。

新自由主義はグローバリゼーションという名の金融自由化の本質的な要素を覆い隠しながら、その効果を社会全体に広めるための方便としてのイデオロギーである。ようやく新自由主義への反論を行う機運は高まってきたものの、その根本的な誤りを正し、恥を覚悟しない限り、専門家がこのイデオロギーを持ち出せないようにしてしまうことが必要である。


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by zarathustra1883 | 2008-11-03 18:33 | 思想

リーダー待望論、公務員バッシングと依存心

何かに依存する心理が、怒りの原因になることがある。

例えば、依存している対象から依存を許さないことを告げられた時などに、怒りが依存対象に向かうという現象が見られる。

昨今の「カリスマ的なリーダーを待望する風潮」と「公務員バッシング」もこれと同じ心理の反映であるという側面がある。

バブル崩壊後の日本では、何かがおかしい、何かがうまく行っていないという漠然とした雰囲気が共有されている。しかし、その原因は何なのか、どうすれば解決できるのかということについての具体的な指針は共有されていないし、一人ひとりの中で具体化もされていない。漠然と問題があることだけが感じられる。その問題は、自分や身近な人びとでは解決ができないと感じている。誰かに打破して欲しい、解決して欲しいという依存心が生じがちになる。

それを反映しているのが「強いリーダー」とか「リーダーシップ」といったものを待望する機運である。小泉が首相の座に登りつめるときにも、この心理が作用したし、彼がリーダーを演じている間もそうだった。その後には、彼ほどのカリスマ性を持つリーダーが国政には現れていないから、常に不満を感じて支持率は低いままになっている。橋本徹がやたらと一部で支持されているのも、これと同じ「リーダー待望心理」という依存心によるものであると解釈できる。

「公務員バッシング」は、かつては(90年代前半頃)高級官僚(あるいは、その候補生としてのキャリア組)を対象としていたものだが、それが繰り返されるうちに、大衆へと一種の「常識」として広がり始め、それに伴い、次第に対象が拡大されてきた。

これも「誰かに解決して欲しい」という依存心が根底にあると読める。つまり、「誰かに解決して欲しい」という思いが、「優秀であるとされていた、あるいは、権力を持っているはずである『官僚』がきちんと問題を解決するべきだ」という責任の押し付けに転化し、漠然とした問題が常にある感覚の中で、何か具体的な事件をきっかけに「官僚が悪い」(それがより広く解釈されて「公務員が悪い」になる)と攻撃の矛先が向かう。何をすべきかを支持するのは主権者とその代表である議員であるはずであるにもかかわらず、ここでは主権者としての責任は放棄されている。自分は悪くないのに官僚が悪いことをしているから自分の生活は何かおかしい、という発想が常識化している。そこには本人には気づかれていない依存心がある。

私は「平均的な大衆」にこの「依存心」を克服することを訴えはしない。道徳的な訓戒として指摘することくらいはしてもいいかもしれないが、彼らを一気に変えることなど不可能であると考えるからだ。私は一定水準のVernunft(理性)を持ち合わせた人びとに対して訴えたいと思う。「魅力的な政策を考えよう」と。

そこで生まれる理論が政策を実現するための運動に繋がり、それが政治家にも波及するような動きを作り出すことは、個人の力では不可能である。しかし、ネットワークを通じてこれを広めていくことは多分に偶然的な要素が絡んでくる。まずは不動的なコアとなる理論・理念・政策を確定することである。運動の中から、運動を行うことから思想が生まれてくることがある。だから、運動を行うことは何であれ否定はしない。

しかし、運動家と接して思うのは、彼らには十分に熟考され、練り上げられたプログラムが欠けており、場当たり的になりがちではないかということだ。場当たり的な運動が向かう矛先は、「敵対勢力への反対」になりがちではないか、とも思う。ブログなどの言説を見ても、明らかに「敵対勢力への反対・批判」のための言説が政治に関しては非常に多い。そうした運動は、そこで満足してしまうことがさらなる前進を阻むのではないかと思う。

どちらかというと、理論を重視する傾向のある私の趣味の問題もあるが、私としては今どのような政策が必要なのか、今、世界はどのような体制に移行しようとしており、それはどのようなものであるのが望ましいのか、ということをはっきりさせたいと思っている。
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by zarathustra1883 | 2008-11-03 17:52 | 思想

リベラリズム、民主主義、国家主義

私の思想的な立場をちょっと確認しておく。

中道から左については、リベラリズム、民主主義に対して批判的である。

中道から右については、国家主義に対して批判的である。

個人と世界システムという2つのシステムを基本単位とする。

これらのシステムを反省的には複雑ネットワーク(個人は最小単位のノードである)として捉え、行為論的にはオートポイエーシスとして捉える。この点が通常の右派とも左派ないしリベラルとも大きく違うところである。


以上に少し踏み込む。


リベラリズムについては、個人の自由を尊重する点では同意するが、それが尊重されるべき範囲を決める原理を含んでいない点で不十分であるとする。

民主主義は反省的な理論構成の範囲内では論理矛盾にならざるを得ない点で不十分であり、その理念と現実の制度との必然的な乖離を十分に認識させず隠蔽してしまう傾向がある点でも不適切である。(だから、私は理念や理論としては「民主主義」、制度としては「デモクラシー」と呼ぶ。)以上の理念の矛盾と理念の崇高さは制度には完全に反映できないという2点をもって、民主主義を理想化することに対して批判する。

制度として現実化できない最大の理論上の問題は「強い個人の仮定」である。民主主義の理論では、主体的に政治的な判断を下すことができる市民を前提している。(現実にはそんな人間はごく少数である。)もちろん、こうした古典的な理論とは異なり、情報の不完全性を考慮したり、いろいろな前提の操作も行なわれた理論があるのだが、それでも、特定のタイプの人間を想定することは必須であり、それが現実の人間の行為を的確に捉えていない(「われわれのことをわれわれが決める」という以上、その「われわれ」は共通性を持たなければならない)ために、その理念は現実化しない。

民主主義の理論が「弱い個人」を仮定する場合、その「われわれ」は、もはや民主主義の理論が理想とするようなことを実現できるものではなくなる。現実に近づけるには複数の階層的な「われわれ」を想定しなければならないが、階層的であるところに価値序列が入るとそれは貴族制や寡頭制のような類型に近づくというジレンマがある。いずれにせよ民主主義の理想とは異なるものに理論が変質しなければならない。

国家主義はまったく論外である。分析単位として見る場合にも「国家」なるものは極めて不適切である。政治的決定と法的正当性は、相対的な恒常性をもってある特定の範囲内に及ぶと見てよいが、それは何らかの実体的な存在者ではなく、ある特定の機能の航跡にすぎない。その機能は現実にはそれとは異なるネットワーク構造の中に組み込まれている。それが世界システムである。なお、ウォーラーステインの世界システム論では、インターステイトシステムが資本主義世界経済の上部構造的な位置づけで構想されているが、私はそれとは異なった見方をしている。(分かりやすさのためにメインブログなどではこれを援用することはある。)

実践的に見ても「国家」は個人より優位な位置づけを与えることはありえない。「国家」はなくても個人は生きていけるのだから。ただし、「社会=諸個人の関係」がなければ生きていけないので、個人だけを尊重するわけではない。これはリベラリズム批判でも触れた。但し、この「社会」なるものにア・プリオリに特定の性質を読み込むのは避けるべきである。共産主義や社会主義ではこれは平等な社会が可能だとされるが、私はそうは見ない。常に「少数支配の原理」は働く。したがって、優位な社会層と不利な社会層が存在することは不可避であると考える。しかし、そこに支配関係が存在する場合でもそれが「国家」である必要はない。主権国家が成立する以前の「国家」は主権国家としての「国家」とは大きく異なるものであった。何らかの支配構造を内蔵する社会関係は不可避だが、それは必ずしも現在の普通の人々が思い描くような「国家」である必要はない。
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by zarathustra1883 | 2008-03-21 00:01 | 思想

「小さな政府」論の下書き的メモ

近々アップしたいエントリーのためのメモ。

◆「小さな政府」とか「小さすぎる政府」と私が言う場合の意味について。

政府の財政というのは、その国の構成員から税などの形で金を徴収し、それを再配分する機構だと見ることができる。その再配分のパイの大きさが相対的に小さいということを言っている。

一般的には 国民負担率=(租税負担+社会保障負担)/国民所得 が使われている。

ただ、物価水準と可処分所得との関係を何らかの形で絡ませたほうがいいのではないかというのが私の考えなのだが、それをどのように組み合わせるのかは専門的過ぎて歯が立たないというか、まだ着手していないという状態ではある。

それゆえ、暫定的なものとして、強制的に徴集される金額の合計と徴収される前の手元の金との比較である国民負担率を使っている。

◆パイが小さいということは、社会保障や福祉に回る金の割合は、パイが大きい政府よりも相対的に低くなるのが通常だろうと考える。なぜならば、警察や消防や戸籍の管理など、夜警国家的な事務はパイが大きかろうと小さかろうと存在しているのが普通だろうからだ。

パイの大きさが10000である政府Aとパイの大きさが5000である政府Bがあるとして、このどちらも夜警国家的な仕事に3000の経費がかかるとすれば、政府Aは残りの7000を土建関係に使うか福祉に使うかといったことを選ぶことができる。これに対して、政府Bは残りは2000しかないものを夜警国家的な事務以外のことに配分しなければならなくなる。必然的に社会保障への配分の割合は小さくなる、と考える。

この事例で言えば、政府Aと政府Bがいずれも残額をすべて福祉に使ったとすると、政府Aは予算の70%を福祉に使うことになるが、政府Bは40%しか使えないことになる。日本の状況は後者に近いのだが、こうした固定的な経費の存在を考慮すると、国民純負担率を使った国際比較は、何らかの補正が必要だと考えている。

◆ちなみに、国債を全部返済した場合には、神野のような「純負担」的な国債による負担はゼロという議論が成り立つが、返済の途中では潜在的国民負担率を使った評価も妥当な場面はあるかもしれないと考えている。国債保有者に金が流れるだけというのは確かだが、そうした資金の偏り自体が何らかの不利益をもたらす可能性があるからだ。

例えば、金持ちに金が多く集まり、貧乏人に金がないという状態の場合、一国全体としての消費性向は平均すれば下がることになる。それによって経済的な損失が生じる可能性はあり、それによる所得の減少分などを加味すると、富の偏在が一国レベルでの経済活動の鈍化に影響を与えるという形で、一国レベルの経済や財政にかかる負荷が高まるという考え方などはありうる。しかし、この類の影響はそれほど過大評価できないと考えるので、素人レベルの「床屋談義」では、こうした高度なことは考える必要はない、というのが持論ではある。

◆日本の場合はパイが小さいことは否定できない。その上で、夜警国家的なもの以外の事務として土建国家と言われるような予算の使い方をしてきたことが福祉の分野が非常に弱い要因となっている。この分析はほぼ誰もが納得するものであり、これこそ既に言い尽くされた話だと思っている。

◆ただ、土建国家を単純に非難するのは、歴史的な経緯や世界経済の中で規定されてきたという状況をあまりに軽視した近視眼的な見方だともいえる。もちろん、もっと福祉に力を入れてくるべきだったと私も考えるが、日本が土建国家になったのは、福祉の給付を受ける人が少ない時代に行財政システムが確立してきたことと無関係ではないし、産業の育成という観点から見ても、戦後から高度成長期の日本では土建業などにある程度力を入れざるを得なかった現実は否定できないと思われる。そうした過去の歴史的条件を無視して、今の感覚だけで歴史を裁断するのは歴史修正主義者と大して違わない。

土建国家から福祉国家に転換すべきだったのは70年代頃だったはずで、そこで道を踏み外したのではないか。そして、80年代のネオリベの開始で、それは決定的に後退せざるを得なかった。

日本がネオリベに巻き込まれてしまったのは、中曽根の個性などの問題に帰されるものではない。世界経済で中心的な位置にあったという事実がその背景にある。国際的な資本移動が自由化に向かう中で、それをするのに有利な立場にある企業が多くある地域だったから、日本で新自由主義が推進されたのである。米英でそれが始まったのは偶然でもなんでもない。

逆に、北欧諸国が福祉国家であることを守れたのは、そこまで突出した力を持つ企業がなかったこともマクロな要因としてあると考えている。

つまり、かつての自由主義と保護主義と同じような構図なのである。歴史上、自由主義経済を標榜した国というのは、常に、他国よりも優位にある国だった。17世紀のオランダ然り、19世紀のイギリス然りである。もちろん、自由貿易の考え方を主張するからと言って、それらの国が本当に自由貿易を貫徹するわけではない。自国にとって有利な場面でだけ自由貿易の原則を貫こうとし、逆に不利なものについては保護貿易をする。例;イギリスとインド。

こうした要因があるから、日本が北欧と同じにはなりえなかったとは思う。その点は政治家や行政の責任ではない。ただ、今よりマシなレベルまで整備しておく必要があったのに、彼らはそれを怠ったとは言える。

とりわけ、年金を賦課方式にしていないことは大きな問題だというほかない。
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by zarathustra1883 | 2008-02-10 01:34 | 思想

哲学的充電

久しぶりにウィリアム・ジェイムズを読んだ。

私が彼の本を集中的に読んだのは、確か2000年から2001年頃だったと思う。あの頃よりも遥かによく理解できるようになったと感じている――勘違いかもしれないが(笑)。しかし、そのように考えるにはそれなりの理由がある。

ジェイムズが対決していた相手は当時の超越主義とか絶対主義と呼ばれるような哲学であって、その性格を一言で言えば河本英夫が言うところの「観察者」である。彼らはかなり徹底的に「観察者」の立場から見た論理によって世界を記述していたようだ。ジェイムズはそれが後ろ向きの思考であり、具体的なものを生成することができない薄っぺらなものであることを見て取り、彼自身はベルクソンからの影響を受けながら、「生の経験の連続性」を捉えている。

私が数年前より遥かにジェイムズを内在的に理解できるようになったと感じるのは、この間に私自身の思想の変遷が関係している。私は概ね2002年頃から2004年頃にかけて、観察者の理論を極限まで推し進めた「意味空間論」と名づける立場に到達したが、それがどのような立場や事実をも説明できるということを事ある毎に確認しながらも、使い込んでいるうちに何か「それ以外のもの」があるのではないか、という感じを持つようになっていった。全てを秩序付けているはずなのに、現実の全てを組みつくしていないという感覚だ。もう少し正確に言うと、どのような事実であっても、意味空間論によって、その意味を把握し、それが置かれている関係を把握し、記述することができるということを確認し続けたが、それにも拘らず、何かがそこでは捉えられていないのではないか、という感じを持つに至っていた。「意味空間」の概念を私に与えてくれた村上陽一郎の論文の中にも、そのヒントはあったが、なかなか解けないでいたところで、たまたま読んだ(いや、そうした問題を考えるために科学哲学や科学史の文献を読み漁っている中から見つけたのだから偶然とは言えないだろうが)ある思想系の雑誌の中で、河本英夫の「オートポイエーシス」の思想が、その問題に明確に答えており、私が把握したのはせいぜい世界の半分でしかなかったことがはっきり分かった。

すなわち、私が意味空間論で捉えていたのは、河本が言うところの「観察者」から見たものでしかなく、それは行為者の感覚するものをどんなに観察して記述しても、常に誤りを含んだものでしかありえない(つまり、両者は一致しない)ことを――その仕組みのレベルから――はっきり認識した。そしてそれに気づくことによって、行為者が感覚するものを、よりはっきりと捉えることができるようになった。

ジェイムズが捉えている経験的な現実は、まさに行為者のレベルのものであって、ジェイムズが批判している対象は、観察者の立場だけが認識の全てであるとする立場である。これはまさに2005年以降の私が、それ以前の私の理論を批判して抜け出してきた過程と同じ構造であっる。それゆえに、私はジェイムズが捉え、言おうとすることを、かつてよりもはっきりとわかるようになったのだ、と思っている。

今回は『多元的宇宙』を読んだのだが、非常に示唆に富む内容が多かった。最近は私も政治に関することなどをブログに書いていて、他人が書いているブログなども結構見るようになっていたのだが、政治的にリベラルな立場に対して拒否感がある人々の議論にかなり高い頻度で登場するロジック(というか屁理屈なんだが)の多くは、まさにジェイムズが本書で批判しているヘーゲルのエピゴーネンたちの薄っぺらで干からびた議論で使われるロジックと非常に重なるところが多いということが分かったのは、特に面白かったところだ。

そうした薄っぺらな議論に対して、ジェイムズがもっと厚みのある、内容に富んだ叙述がどのようなものかを示していくあたりは、ジェイムズが只者ではないことを強く感じさせる。薄っぺらな議論はしばしば極端なことを言って、中間の度合いを現実に即してディテールを描くことができないのに対し、現実は連続的なものだから、それを生のまま捉えてそれに適切な表現を与えるならば、さまざまな中間の度合いを持った表現をなすことができる。これは左派とかリベラルにも言えることだが、中間のものを適切に捉えることができるかどうか、という論点は非常に重要だ。

例えば、再配分が必要だと言ったときに、それを即座に「資本主義」なり「市場経済」の否定と受け取り、既に破綻が明らかになった「共産主義」「社会主義」だと言って拒否反応を示したりするような議論。また、中国や北朝鮮などに対して威圧的・強圧的な態度をとらない外交のスタンスに対して「反日」や「売国」などとレッテルを貼ってみたりするのも同じだろう。リベラルや左派の側でも、ある分野の政策で「新自由主義」に加担するような発言をした人物に対しては「新自由主義者」とラベリングして拒否反応を示すようなのも構造は全く同じだ。これらの例に見られる発言の中には、部分的には当たっているところもある、ことがある。が、基本的にこうしたことばかり(たとえ、分かりやすさを優先させるとしても)、やっているようでは、その人の知性は事柄の半分すら捉えていないと言わざるを得ない。

たまに哲学書を読むと、理論的な思考が久しぶりに活性化された。かつてのように哲学書ばかりを読んでいるわけにも行かないが、たまに良い哲学書を読み返したり、まだ読んだことがないもの(邦訳された哲学の主要文献の多くを、私は既に読んでしまったが)を読んだりすることも、理論や思想的な背景が薄弱になりがちな政治や経済という分野に足を突っ込んでしまった身としては、リフレッシュないし充電の意味からも必要なことだと感じられた。
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by zarathustra1883 | 2008-01-18 23:35 | 思想

「B層」論を有効な分析にするために(草稿)

結論から。

「B層」を「IQ」や「(批判的に)自分の頭で考える力(知性)」などによってカテゴライズするのではなく、「主として何によって政治に関する情報・知識を得ているか」という観点に着目して分類・考察するべきである。そうすれば、分析は有効なものになるだろう。

私がこの言葉を使って分析するとしたら、「主としてテレビ(+ラジオ?)によって政治に関する情報・知識を得ている社会層」と規定するだろう。その上で、「他の媒体にも目を通すとしても、政治は関心の中心にはない(積極的に政治についての情報を得るための活動はほとんどしない)」というのは一つの指標となると思う。

もっと厳密に論文に仕上げるなら、1日あたりにテレビを視聴する時間の長さや新聞・雑誌等を読む頻度や恒常的に接触するこれらの媒体の数(何種類の雑誌を読んでいるか)といったことなどを調査項目に入れてアンケート調査(無作為抽出によって母集団を選定)などをして分析し、相関関係を洗い出した上で、有意な結果が出たところで線引きをするなどの操作が必要だろうが、一般庶民にはそこまですることはできないから、そこまでは要求しない。

いずれにせよ、能力のような「潜性」によって規定すると分析は必ず失敗する。扇動を目的とする文章で使うならば、そうした規定の仕方の方が馴染むだろうが、世論の状況などを分析する際に「B層」という言葉を使うならば、うまくいかないだろう。

本格的なエントリーとしてあげるためには、小泉政権時代にこのタームが政権内で用いられた経緯やその使われ方(実用上および語用論的な)などについての分析も必要になる。今回はそこまでするヒマも気も湧かないので、とりあえず、骨子だけの草稿をアップしておくことにする。
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by zarathustra1883 | 2007-10-14 15:08 | 思想

ウェーバーとブローデルにおける因果帰属の方法論について

スティーブン・コールバーグ(『マックス・ウェーバーの比較歴史社会学』)によると、マックス・ウェーバーには定式化されていない因果帰属の方法論があるという。その一つとして、「促進する原因」と「不可欠の原因」が区別されていることが挙げられる。

「促進する原因」というのにも程度に差があるだろうから、「妨げない原因」くらいまで拡大することもできると私は考えている。そして、この「妨げない原因」は、ブローデルの「変動局面」や「長期持続」の時間領域に見出されることが多いのではなかろうか、ということに、最近ふと気づいた。必然的な繋がりではないが、親和的ではありそうなのだ。

これに対して「不可欠な原因」は主として短期の事件史や中期の変動局面に属すると思われる。長期に属する事柄では、その場所では常に同じ現象が持続し続けなければ説明にならないので。

もし、これが原因の理論におけるウェーバーとブローデルの理論を繋ぐものだとすれば、この発見はかなり貴重なものであるように思われる。しばらくウェーバーに取り組む余裕はないだろうが、こうした観点から再読して見るのも面白いだろう。また、コールバーグの本も読んだのは5~6年も前の話なので、読み直してみるのもいいかもしれない。(上のコールバーグ解釈も大雑把過ぎてあまりいいものではないかもしれない。なにせ、かなり昔に読んだものだから。)
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by zarathustra1883 | 2007-05-27 02:31 | 思想