ブログ「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。気になるニュースや雑感・着想のメモ等(エントリーへのリンク付きTBかエキサイトブログのみTB可です。)
by zarathustra1883
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カテゴリ:日記( 10 )

日本に春節がない(?)理由

先日、台湾の友人からメールで「日本のような伝統文化を重んじる国で、しかも、その文化の一部は中国から来たものなのに、どうして春節をお祝いしないのか?」という主旨の疑問が述べられていた。

これは日本の側からは思いつかない疑問だと思われたので、面白かった。一応、これに自分なりに答えてみようと思うのだが、その際の資料をここに記録しておくことにする。(一気に中国語に変換するのは大変だから、日本語である程度内容を整理してから訳してみようという目算である。)

ウィキペディアの「旧暦」の項目がまず参考になる。

日本の旧暦は天保暦である。ただし後述するとおり、現在旧暦として使われている暦は改暦前の天保暦とわずかに異なる。

天保暦は明治5年12月2日(1872年12月31日)まで使われていた。その翌日の12月3日をもって明治6年(1873年)1月1日に改められ、グレゴリオ暦(太陽暦)に改暦された。改暦は明治5年11月9日(1872年12月9日)に布告し、翌月に実施された。この年の急な実施は明治維新後、明治政府が月給制度にした官吏の給与を(旧暦のままでは明治6年は閏6月があるので)年13回支払うのを防ぐためだったといわれる[1]。今なお占いや伝統行事などでは需要があり、旧暦もしくは陰暦の俗称で用いられている。


基本的にはこの時点で暦が変更され、「正月」は旧暦の正月(春節)から新暦の正月に変わったものと思われる。「正月」の休暇やお祝い(?)自体はなくなったわけではないから、新正月だけ祝えば十分だし、逆に、1月程度の間に2回も大型連休を作るのもあまり合理的とはいえないように思う。

中国との比較でこのように早期に暦を「西洋式」に切り替えることができたのは、「日本の支配層に先見の明があったから」ではなく中国を中心とする文化圏の中では日本は半周辺的ないし周辺的な位置におかれていたからであろう。

アメリカの「黒船」に象徴されるように、欧米の強力な軍事力を目の当たりにしていたことも当然、要因の一つだが(ペリーの来航は1853年(嘉永6)である)、それは他の東アジア諸国も似たような条件だったと言えるとすれば、日本政府が西洋化への道をとりやすくなった独自の条件としては、上記のような地政学的な位置づけがあったと見ることができよう。

なお、これと効果は逆方向だが類似の現象が冷戦後の経済の停滞についても言える。つまり、日本はブレトン・ウッズ体制と冷戦構造から恩恵を受けられる位置にあったがために、その時代のモードから脱け出しにくい状況が続いている、という側面があることである。

ついでに調べてみたのだが、クリスマスの普及はグレゴリオ暦を採用してからやや遅れているようだ。以下、またウィキペディアの「クリスマス」の項より引用。


日本で初めてのクリスマスは、1552年(天文21年)に周防国山口(現在の山口県山口市)において宣教師コメス・デ・トルレスたちが日本人信徒を招いてのミサであった。しかし、その後江戸時代に幕府がキリスト教を徹底的に弾圧したことから、明治のはじめまでまったく受け入れられることはなかった。

日本でクリスマスが受け入れられたのは、1900年(明治33年)に明治屋が銀座に進出し、そのころからクリスマス商戦が始まったことが大きな契機であった。大正時代になると、児童向け雑誌や少女雑誌の十二月号には、表紙をはじめとしてクリスマスにまつわる話や挿絵がたくさん導入された。1925年(大正14年)に日本で初めてクリスマスシール(結核撲滅の寄付切手)が発行される。

大正天皇が崩御した12月25日が、1926年(昭和元年)~1947年(昭和22年)までの期間に新たな祝日「大正天皇祭」とされ、この新たな状況もクリスマス普及に大きな役割を果たしたとされる。

1928年(昭和3年)の朝日新聞には「クリスマスは今や日本の年中行事となり、サンタクロースは立派に日本の子供のものに」と書かれるまでに普及していた[8]。

昭和初期の頃、銀座、渋谷道玄坂から浅草にいたるまでの多くのカフェや喫茶店においてはクリスマス料理の献立を用意し、その店員はクリスマスの仮装をして客を迎えた。この様子を1931年(昭和6年)12月12日の都新聞は、「七千四百余のカフェと二千五百余の喫茶店に華やかにクリスマスが訪れサンタ爺さん大多忙を来たす」と報じた。


これを見る限り、日本におけるクリスマスはバレンタインデーなどと同じように商業的な目的によって(商業用のイベントとして)普及し、現代に至るまでそれは変わっていないようである。

そして、この路線は、多少なりとも「欧米への憧れ」が日本の人々の間に広まっていたことと相乗効果があったのではないかと推測される。「憧れ→憧れを利用した商品→さらなる憧れ」といったマタイ効果が僅かではあれ蓄積されていったのではないだろうか。

いずれにせよ、欧米のようにクリスマスが祝日でないことが、商業的な目的によって盛り上げられたイベントであることを端的に物語っているように思われる。
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by zarathustra1883 | 2009-02-01 00:31 | 日記

雑感など

★政治のモードは変わっているのだが、安倍晋三が表舞台にいた頃と同じように自民党や官僚(無駄遣い)を非難して、政権交代すべきだと考えている輩が、現実の世界よりもブログの世界では目立つ。モードが変わっても対応を変えられないのは、批判している側が既に硬直化し、死んでいるということを示しているように感じられる。オートポイエーシスに見られる自在さや創発はそこにはない。

★暫定税率の復活に反対する政党は、自らが与党となったときに自分の首を絞めることになる。「減税=大衆の味方=善」であるかのように勘違いしているバカをウェブ上では特に多く見かけるが、世論調査を見てもそれに近い感覚が広まっているのは確かだろう。世論の基本的な判断と行動の原理は、小泉が登場しているときと何も変わっていない。

それに対して、現時点の日本の現状を踏まえる限り「適切な増税=システムの適切な作動=善」と考えるのが妥当であろう。私は徹頭徹尾、システム論者であることを再確認する。

★私は当然、暫定税率復活に賛成であるが、減税については、適切なやり方(財政の混乱が生じない限りにおいて、マクロな経済効果が期待できる方法)でならば、賛成できないことはない。例えば、ガソリン税などではなく、所得税や法人税の課税最低限の引き上げという形などでならば、情勢によっては賛成できないことはない。

しかし、税財政のシステム全体の見直しを伴わないガソリン税の減税は財政の混乱と負担の先送り(地方自治体における決算上の赤字による財政の機能不全、すなわち行政による各種給付の一部停止や債務の増大など)を伴うために賛同できない。

また、家計の流動性保有願望もかなり高い状態であると推測するので、それならば減税よりも歳出拡大(公共事業)のほうが適切な方法論ではないか、とも考えており、減税よりは歳出拡大の方を私としては推奨するところである。ただ、金融グローバル化によって、グローバルな資本と非グローバルな経済主体とのリンクが細くなっているため、国内で金を循環させること自体はどのみちやりにくい仕組みが既に作られているから、劇的な効果はどのみち望むべくもない。

★税や財政について数年前にある程度専門的に学んだが、次は福祉や医療の分野について少し深めていこうかと考えている。公共事業について調べるのも悪くないが、税体系をどのように構築するべきかという問題との兼ね合いについては、社会保障論の方が相性がいいように思われる。これらをセットで構築した上で、公共事業についてのデザインを上乗せするのが、理念型としては適切な構成の仕方になるのではなかろうか、という見通しを持っている。

★仕事のありようが大きく変わったので、今後しばらくの間はブログの更新はほとんどできないだろう。メインブログの更新頻度はできれば月1~3回程度まで減らしたいと思っている。こちらのブログは「エントリー以前のエントリー」を載せていくところという位置づけなのだが、それ以外にも公共的なメッセージ性の強さとテーマの一般性の程度に応じてブログを使い分けているところがあるので、その線は従来どおりやっていくいことにする。読書ブログは従来どおりマイペースでメモしていく予定。結局、更新頻度は読書ブログが一番多くなるだろう。
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by zarathustra1883 | 2008-05-01 00:16 | 日記

たまには晒してみるか。

メインブログの3/18のエントリーにコメントした「在日マン」について。

4/19の朝4:37にアクセスした後、5時過ぎに中傷的なコメントを残していった。無意味なコメントでも、それなりに利用価値がある場合、(例えば、一つ前のエントリーのように、仮にコメント自体は取るに足りない意見であっても、それが世論の一部の風潮を反映しているために、それを一つの典型的な事例と見なして、それに対する反論のあり方を模索することに利用可能である)残しておいてもいいのだが、それすらする価値がないのだからどうしようもない。


ホスト名は ntkngw283102.kngw.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp
IPは 125.2.111.102

まず、ここから神奈川県からのアクセスであると容易に推定できる。

Network Information: [ネットワーク情報]
a. [IPネットワークアドレス] 125.2.0.0/17
b. [ネットワーク名] INFOWEB
f. [組織名] InfoWeb(富士通株式会社)
g. [Organization] InfoWeb(Fujitsu Ltd.)
m. [管理者連絡窓口] YK13517JP
n. [技術連絡担当者] KN6902JP
n. [技術連絡担当者] TK13654JP
p. [ネームサーバ] ns1.hyper.web.ad.jp
p. [ネームサーバ] ns3.hyper.web.ad.jp
[割当年月日] 2008/03/04
[返却年月日]
[最終更新] 2008/03/04 15:14:18(JST)

上位情報
----------
富士通株式会社 (FUJITSU LIMITED)
[割り振り] 125.2.0.0/15

下位情報
----------
該当するデータがありません。


富士通のプロバイダで旧Infowebだから、今で言えば@niftyってことだろうな。


ちなみに、この人は

  http://game117.alink.uic.to/

のようなサイトにもアクセスしたことがあるようだ。
かなりのヒマ人だと推測される。
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by zarathustra1883 | 2008-04-19 20:03 | 日記

皮肉なめぐり合わせ?

それにしても、民主主義の批判者である私がデモクラシーを擁護したり、人権の批判者である私が人権を擁護したり、リベラリズムの徹底的な批判者である私がリベラルと手を組まなければいけなかったり、なかなか皮肉な状況が続いている。

特に、本来ならば、行政(公務員)に対しても批判的なスタンスを取りたいのだが、今の世論の空気の中でそれをやるわけにも行かない状況が続いている。

実際、税や財政に関する世論の反応には理性Vernunftは全くと言うほどなく、ヒステリックに奇声を上げているだけのものが多い。批判Kritikによって悪い部分を切り分ける際に、集団ヒステリーの状態にある人々と同類の論理に私のほうが巻き込まれてしまう感じさえする。

小泉が登場してきたときの雰囲気と最近は非常によく似ている。道路財源の暫定税率撤廃派は、小泉信者と重なる。だから、彼らの主張の明らかに誤っている点については、どんなに小さな声でも上げておく必要がある。
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by zarathustra1883 | 2008-04-04 23:27 | 日記

先日のコメント欄のこと

先日のメインブログのコメント欄で、私は、税源移譲による生涯納税額の変動⊿Tについて以下のように書いた。

  ⊿T = F(C) + G(X)

  ただし、
   F(C) = La(C) - Lb(C) ≧ 0
   G(X) = Ia(X) - Ib(X) ≦ 0

F;税源移譲後の税制で算出した住民税(La) - 税源移譲前の税制で算出した住民税(Lb) 
G;税源移譲後の税制で算出した所得税(Ia) - 税源移譲前の税制で算出した所得税(Ib) 
C;平成18年分の所得
X;死亡する年の所得


しかし、これを導く一連の(3つの)コメントで、一つ私が間違えたことがある。

税源移譲前の住民税の税率を5%の事例で考えたために、13%の事例については、数字の正負が逆転することを計算に入れるのを忘れたことである。序盤の議論(エントリー)ではこのことは意識の中においていたつもりだが、コメント欄では議論する相手の誤りをどう正すかというところに引っ張られる形で、この点が抜け落ちてしまった。私もまだまだ修行が足りないようだ。

(要するに、F(C)とG(X)の符号は一義的には決まらず、CとXの値が、どの税率ブラケットに属するかによって違ってくる。この点とそれに関連する部分に記述の誤りがある。)

以下余談。

しかし、税源移譲を「増税だ」と言おうとする人々のあまりにも恣意的な論理の展開、正確に言えば、非論理的な議論には困ったものがある。あれではまともに税についての議論をすることなど到底不可能だろう。

スウェーデンの中学教科書などで税について考えさせるように教えられているというのはよく聞くが、日本ではそれがまったくというほどないし、マスメディアを通じて流される一方的な内容だけによって「税のイメージ」が形成されているようだ。しかし、「税の本質」とでも言うべきものについての認識はまったくというほどない。財政に関する問題が大きな要因となって、日本の政治経済的な没落は早まるだろう、と予測せざるを得ない。

ついでに言うと、税源移譲が三位一体改革の中で行なわれたからネオリベの政策だと思っているのだとすれば、それは誤りであろう。この税源移譲は、低所得者が多い地方の自主財源が増えることになる制度変更である。問題はその分交付税が減額になり、それを必要とする地方に再分配されないようなことが起こる可能性がある点である。地方交付税制度の本来の趣旨がきちんと守られて運用されているなら、この問題が生じる可能性は低いのだが、90年代の大蔵省(現財務省)や自治省(現総務省)の法律に反する制度運用のために、どうなるかは(過度に悲観する必要はないと思われるが)不透明なところがある。(プラス要因としては配分する額自体が小さくなることが、補正係数による操作が及ばない部分の割合が増えるとすれば、その分、運用は適当なものになる可能性がある。逆に作用するならもちろん、逆方向の効果をもたらす。どうなるのかは、今のところよくわからない。)
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by zarathustra1883 | 2008-03-08 15:02 | 日記

噛み合わない議論について一言

おやおや。

  「今度は負担概念を混同していると言い出しましたね。」

だそうで。

私は「負担とは何か?」のエントリーでこれを新たに言い出したのではなく、前に言っていたことを伝えるやり方(表現やアプローチ)を変えたのである。もともとの批判文では繰りかえし、「種類が違うものを同列に扱うな」ということを言っている。

以下に実例をあげるが、特にわかりやすいのは2つめ以降の文だろう。「支出の多さ」と「純負担=支払-受益」は違うのに、同列に並べるのはおかしい、というのが論点2と3で言っていたことだ。

◆日本では「支払いの割に社会保障として戻ってくるものが少ない」としかいえない。それなのに、結論は「支払いの割に全体として戻ってくるものが少ない」と言っていることになる

◆純負担を用いて「高負担だ」と仮に言えたとしても、それに付け加えて、「サービス水準が低い」という批判を並べることはできない

◆「高負担」とはこの純負担が大きいことを言っていた。ところが、ここでは一転して、給付のことしか言っていない

◆「高負担」という際には、国民純負担、つまり「差し引きしたもの」で言っておきながら、「低サービス」という際には、「差し引きではなく公的サービス給付の単純な少なさ」を持ち出すとすれば、明らかにおかしい。つまり、「税負担の単純な少なさ」がここでだけ無視されているからだ。

◆国民純負担をもって国民の負担が高いかどうかを判定しようとする立場に立つならば、国債は負担には算入できない

まぁ、今回、表現の仕方やアプローチを変えたら、こちらの主張(負担概念を混同していると私が言っていること)は理解してもらったようだから、私としては参考にはなった。

★もう一点、おかしな点を突いておこう。

最初、彼はこう言っていた。

批判者は『「国民負担率だけで判断してはいけない」というところまでは私も同意する』だそうだが、私の主張は違う。「国民負担率」はダマシ数字である、と否定しているのである。


このようにして「国民負担率」を否定した上で、国民純負担率こそ「本当の負担率」だとしているわけだ。

しかし、私が補足のエントリーで「それは財務省と全く同じダマシをやっているということに気づかないのだろうか?たった一つの指標で財政や税負担の全体像をしっかり把握などできるのだろうか?」と述べると、次のようにトーンダウンした。

私の書いていることを批判する余地はいくらでもあります。例えば、この負担概念ではこういうことを無視しているんじゃないか、とね。私もそうやって財務省の国民負担率を批判しているわけです。


おいおい、全然言ってること違うじゃねーか?(爆)

で、本文はどうなっていたかというと、

もちろん官僚の出す数字というのは数字そのものがウソということはない。だから、こんな数字で国民を騙すのか、と聞かれたら、おそらく「数字の解釈は受け取る側の問題」とでもいうだろう。
 それを知っていて、毎年「国民負担率」なる数字を発表し、スウェーデンの数字を付記することを忘れない。こんなダマシがいつまで通用するのか、「国民負担率の賞味期限」は切れることはないのだろうか。


というわけだ。

要するに、私が最初に指摘したこと――国民負担率は意味を限定すれば利用可能である――は正しかったのであり、彼自身が自分の言っていることを正しく理解していなかったのである。私は正しく指摘し、彼は私の指摘を受けて自分の言ったことを正しく理解した、ということである。そんなわけで、読解力がないのはそっちの方だろう、と言いたくもなる。

逆に、私がしたことこそ批判の見本例みたいなもんじゃないか(相手のあやふやな論点を明確にし、相手の認識自体を明晰なものにまで引き上げたのだから)と思うのだが、自分の説を曲げたくないために無理なことを言っているのは見苦しい。

★彼が「負担」の概念を一種類しか使っていないというのは、彼の思い違いだろう。それに、4つの理念型はそのまま現れているとは言っていない。というか、理念型がそのまま現象するわけないだろう。私が新しい方のエントリーで言ったのは、彼の用法では随所で混ざり合っていて、必ずしも純粋に統計的な概念としては使われていない、ということだ。

対案を出せといわんばかりの主張も、私から見れば、そもそも彼の議論は破綻しているのだから、対案を並べるようなものではないわけで、過剰な要求である。つまり、こちらが言っているのは、数字の意味(評価の仕方)が、「ありえないほど大きく間違っている」ということなのだから、こちらが対案(?)を出すような話ではない。(そもそも、意味がわかっているなら、幾らなんでもGDPとNIを間違えるわけがないだろう。

数字で説明してやればよかったとは思うが、論理が破綻してるんだからそちら(論理)で対応するのが常道というものだろう。


★なお、議論の最後には、「私の書いていることは、リンク先をみればわかるが、多くの学者が問題点としてすでに指摘している、枯れた論点である。それをどう解決するかの話ならまだしも、それらの論点が存在しない話であるかのように異を唱えるのは無理だろう」と言って、現代の日本にある問題の解決を出せ、と論点をそらしてきた

私が批判したのは、解決以前の「事実認識」の問題である。教育にせよ国債にせよ、解決のために財政を使う必要があるし、財政自体を変える必要があるが、その現状の認識がおかしいと批判しているわけだ。そして、彼が言う「それら」の中に「重税国家である」という認識は含まれるのか、と聞いたわけだ。しかし、彼に言わせると、「それら」だから「重税国家」は関係ないという論理になるらしい。複数なのだから、含まれるかどうかは当然の疑問なのだが。

だから、勝手に論点を付け加えているのは、むしろ先方なのである。私が問題にしたのは、個別の社会問題ではなく、はじめから事実の認定の問題だったからだ。

そして、事実をどのように捉えるかということが、個別の問題への対応の仕方にも影響を与えるということをはじめから見越した上で批判しているのである。(だから、展望はないんだろう、と確認したのだ。)

★今回のように批判されることは、別のことを書こうとしている人にとっては極めて苦痛であることは理解できる。単に反論が面倒というだけでなく、既に書き終えたことに強制的に縛り付けられることになるのだから。その心境はわかるが、デタラメを書いてダマシているという自分の罪はどうなるのか?ということを考えれば、これくらいの批判をされるのは当然だろう。


★ついでに書くと、彼が「主張を勝手に創作しているからです」というのは、彼が私の書いたことを理解していない以上、そもそも成り立たない。お互い全然理解していないと思っているのだから、もし、相手に何かを言いたければ、その齟齬を解きほぐすところから議論をしなければいけないはずだ。そんな大変なことは、私にはやる気はないが。(だから、敢えて「デフォルメ」したものを書いたという側面もある。もちろん、整理するのに具体的な事例に関わるのは邪魔だからというのが最大の理由だが。)


★私の主たる関心は彼の説の中身にあるのではなく、彼が展開したような(デタラメだが、多くの人にとっては「心地よい」)議論が流布してしまうこと自体にあるから、彼の議論自体を理解するのに、そこまでの労力を割く必要はない。むしろ、それがどのように受容されていくかということを見ることができたのは収穫であり、私としては今回は十分な戦果を上げたので、それなりに満足している。

あとは仕上げの「受益とは何か?」を軽めに書いて、この件は一旦終わりにしよう。


★なお、「メインブログのエントリーへの補足」というエントリーはメインブログと同じく、今後の同種の議論への対応のために今回の議論をデフォルメしたものの草稿だから、今回の議論と完全な対応をさせているわけではない。(だから、固有名はなるべく使わず、随所で「彼ら」と言っている。)ただ、抽象度はメインブログより低い(つまり、生々しい)が。


★数字についても一言書いておく。

数字を使うときは、どの統計のどの数字を使ったのかを明示しないといけない。外国のものである場合は尚更そう言える。一般論として言えるのだが、どうも数字の扱い方がいい加減過ぎるきらいがある。政治経済について発言する人は、もう少しそうしたところをきちんとした方がいいだろう。自戒もこめて書いておく。


「日本は重税国家」という類の言説は歴史修正主義と同類のトンデモである。基本的な構造がそっくりだ。

ある願望を正当化することを目指して、それに都合の良いことを論理的な整合性と無関係に並べ立てて「論証」する。賛同者はその証拠の立証能力などについては全くというほど顧慮しないまま気分に任せて賛同する。個々の事実としての正しさがあるものはあるが、全体の中での意味づけの仕方などが特に甘い点も共通だろう。

俺達はこんなに税金払ってるのに官僚が変なことに使って「消えている」というような発想も、自分は悪くないのに被害を受けているという被害者意識の産物であり、これは歴史修正主義者に見られる特有の被害者意識と底通しているものがある。

この問題はしっかりと掘り下げる価値がある。時機を見てメインブログにエントリーを上げる価値がある。とりわけ、以下の話との関連で重要だろう。

ネオコンとネオリベが大衆的な支持を得てきた90年代以降の流れの根源にあるキーワードの一つは「被害者意識」である。何も悪いことをしていないのに自分を取り巻く状況は悪い方向に向かっているという感覚であり、それに伴う漠然とした「不安」や「不満」であり、それらを解決するために「何をすればいいかわからない」ということを多くの人々が薄々感じている。ここから幾つかの傾向が出てくると見ている。

そのうちの一つとして、何か悪者を見つけると激しくバッシングするという近年の傾向もそれだ。歌手の失言(羊水腐る)というのが話題になっていたが、そうした世相になったこととネオコン、ネオリベが流行ることも共通要素がある。その上、ネットが普及したことによって、情報流通のネットワークに、次数が小さく、スケールフリーであるという特性が強化され、上記の傾向に拍車をかけている。情報の伝わる速度が高まり、一箇所に同時に多くの人がアクセスして攻撃できる環境ができたからだ。

このあたりは追々書きたいと思っていた話だ。この着想がはっきりした(閃いた)のは、今回の一件から得た大きな収穫だ。(以前の同様の議論ではまだ完全に理解していなかったが、今回の件でかなり明確になった。)
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by zarathustra1883 | 2008-02-10 18:54 | 日記

テレビの力、ブログの力(草稿)

この数日の自分のメインブログの動き(アクセス動向)をチェックして思うことは、テレビの力はやはり大きい、ということだ。

テレビ番組のタイトルをエントリーのタイトルに使うことで、その番組に関心を持った人がアクセスしてくるようだ。これを逆手にとって、政治に関心のない人々のアクセスを得て、「サワヤカな安倍晋三」テンプレートのような、面白くて衝撃的(笑撃的)な情報をエントリーに散りばめるなり、埋め込むなりしておくことは、それなりに意味があるかもしれない。

また、政治の話題にしても、アクセスが増えるのはテレビが取り上げた問題や人物であることが多い。新聞や雑誌ではそこまでの影響力はない。ウェブは第一次の情報源ではなく、受動的に受け取ることができた大量の情報のうち、気になったもの・関心があるものについてチェックするツールであるという意味で、情報源として第二次のものだと思う。

もちろん、そうでない分野もあるだろう。2ちゃんねるなどでネット上(だけ)で盛り上がる話題というのもあるだろうし。ただ、ネット上での盛り上がりというのは、実社会に反映しにくい。実際、ネット上で流行していることを実社会で話しても、周りの人はそれについてあまり知らないことが多いのではないか。なぜならば、ネットは個人で画面に向かってやる(見る)ものだから、実社会の活動として見た場合には、むしろ社会的というよりは個人的な活動の範疇に入るからだ。

話は変わるが、このことと関係して、「世に倦む日々」の直近のエントリーでの発言には違和感を感じる。残念ながらテサロニケ氏は、ブログというメディアの特性を捉え損ねている

彼はブログを「単なる個人の日記」的な感覚で扱うことを超えようとしているのだが、それはそれでよいと思う。しかし、そうすることでマスコミと対等な(代替する)立場までブログが高まるというのは誤りだろう。テレビはホストコンピュータを持つコンピュータネットワークのように一つの中心から一方的に情報が流れてくるが、インターネットは分散型のネットワークであり、スケールフリーだ。「すばらしいブログ」ができても、それはせいぜいブロゴスフィアの中のハブの一つに過ぎない。テレビによる情報流通ネットワークは違う。テレビ局は独占的な中心なのだ。複数のテレビ局の競合はあるが、チャンネル数はわずか一桁なのだから、寡占状態だ。

そのことはアクセス数で見てもわかるだろう。きっこの日記が例えば1日4万アクセスだとしても、視聴率たった5%のテレビ番組でさえ1億2千万×0.05=600万人が見ている計算になる。もちろん、しっかり見ている人はさらにその2割とか3割程度だろうが、ほとんど見ていないひとも同じくらいなわけで、そこそこ見ている人が6~7割くらいいると想像する。それでも600万×60%=360万人だ。たった数万のアクセスでは同等の影響力はないのである。

また、彼のようなエリート主義的な考え方ではうまくいかない(人を動かしていくことはできない)だろう。それは「強い個人」を仮定しているから、一時的にあるいはごく少数の有力ブログはあるとしても、それ以上にはならないのである。むしろ、ブログが人(政治)を動かすには、草の根の「誰でもできるものである」ことを利用しなければならない。

手軽に、表現は悪いが、「馬鹿でもできる」のがブログのいいところなのである。テレビを見ることよりはハードルははるかに高いが、それはあくまでも情報を受け取る方向でしかない。情報を発信する手段としての敷居の低さは、他のメディアと比べてブログの優れた特性である。先ほどの数万程度のアクセスではテレビには到底及ばないと述べたが、逆に言えば、たった一人や数人のグループで運営しているブログ一つで、テレビの100分の1以上の影響力をもてるなら、それはすごいことなのである。

そういうブログが沢山集まれば影響力が高まると思うかもしれないが、そう簡単ではない。この点は、実社会での市民運動とウェブ上での市民運動とには、幾つか相違点があることにも注意しなければならないのだ。実社会での市民運動は同じ考え方を共有して運動し、その意見を政治や行政に届けることで、あるいはそのマンパワー自体によって目的を達成しようとする。ブログでそれをやると、金太郎飴になる。もちろん、そういう状態も無意味ではない。いいことを一つのブログだけで宣伝するよりも、同じことを100のブログで宣伝したほうが、多くの人に広まるのは確かだからだ。しかし、どのブログも対等に読まれるわけではないから、その効果は数の増加にもかかわらず逓減していくと思われる。(複数の巨大なハブが同じテーマを取り上げれば、多少、状況は変わってくるかもしれない。情報流通のティッピング・ポイントに達する可能性はある。しかし、それはコンスタントなものではない。)

他にも色々あるがまとめきれないのでこのへんで話を打ち切ることにする。これが書きなぐりのメモ用ブログの気楽さである。メインブログに書くときは、もうちょっと戦略を考えたり、推敲したり、最後まで書ききったりする。こっちのブログは文章は多少適当でいい、というスタンスだ。


「田中康夫代表からの激励メール - 防衛省不正疑惑を追及せよ」より
http://critic3.exblog.jp/7614163/

ブログが社会的に意味のある存在になり、社会の中で地歩を築いて行くには、こういう契機が必要なのだと私は思う。ブログはサブカルではないし、サブカル的存在で終わらせてはいけない。個人のストレス発散や溜息の集積で終わらせてはならず、そのレベルで自己規定して止まってはならない。社会を動かす能力を持ち、政治を変える潜在力を持った言論機関にならなくてはならない。そうした方向性を目指してレベルを上げなくてはいけない。マスコミをリプレイスして世論を作る言論能力を持たなくてはいけない。マスコミに恐れられる強力な存在にならなくてはならない。『世に倦む日日』は、そういうブログのモデルを目指す。それは、そういうモデルが必要だからだ。

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by zarathustra1883 | 2007-10-25 01:31 | 日記

メインブログのCM・TB開放

久しぶりに、メインブログのコメント欄とトラックバックの承認制を解除した。

最近アクセス数が減ってきたので、「ネット騒音おばさん」が出現する可能性が減ったと判断したことが主な理由。もともとメインブログの場合、TBは承認制にしたくなかったんだが、AUTOPAGEの場合、両方いっぺんに承認制になってしまうというのもある。

もともと来年の1月いっぱいくらいまではやることが他にあるので、承認制で行く予定だったが、とりあえず、何もなければ11月いっぱいくらいまでこの状態を続ける予定。12月と1月にどうするかはそのとき考えることにする。

もちろん、その前におかしなもの(ネット騒音おばさん)が現れたら承認制に戻す予定。

ちなみに、経験則から言って、1日100アクセス以下だとコメントはほとんどつかない。300を超えるとコンスタントにコメントがつくという感じだと思っている。恐らく300の近辺に「相転移」するひとつのポイントがあるのではないかと思っている。(ブログの分野や、他のブロガーやコメンテーターに対する姿勢も大きな要因だが。)
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by zarathustra1883 | 2007-10-23 20:13 | 日記

シルクロードと新シルクロード

NHKで昔放送された「NHK特集 シルクロード」は、ロマン主義的(想像の世界に近い)で歴史的な関心に基づいている。これに対して、現在放送されている「NHKスペシャル 新シルクロード」はドキュメンタリー的(リアルを見る)であり、共時的な関心(今、何が起きているのか、また、複数の地域にどのような繋がりがあるのか)がやや前面に出ている。

放送している時代の違いを反映しているようで面白い。

学問の状況も関わっているし、情報入手が入手しやすくなり、通信も容易になり、また、海外旅行も手軽に行けるようになった。こうした状況の反映であるように感じられる。

NHKでは世界三点同時ドキュメントだったか、そんな感じの特集を去年あたりにやっていたが、その手法を取り入れているように見える。個人的には新シルクロードの方が興味深い。今年は中東を扱っているから、それは私のフィールドでもあるので、身近に感じられる。(たいていの日本の人々にはそれほど馴染みはないのだろうが。)
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by zarathustra1883 | 2007-05-27 02:42 | 日記

このブログについて

「ツァラトゥストラはこう言っている?」を中心とする「ブログ・ウェブサイト複合体」に新たにひとつのブログを追加することにした。きちんとした意見をまとめる余力がないときなどに、簡単な走り書きのメモを残したり、気になる記事を見つけたがそれについてコメントをつける余力ないときに、その記事の記録を残しておくことが、このブログの目的である。

つまり、上記のようなメモを、「ツァラトゥストラはこう言っている?」で正式にまとめなおしたり、後から参照したりするデータとして活用しようと思っている。
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by zarathustra1883 | 2007-03-04 02:04 | 日記