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ブログ「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。気になるニュースや雑感・着想のメモ等(エントリーへのリンク付きTBかエキサイトブログのみTB可です。)
by zarathustra1883
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リーダー待望論、公務員バッシングと依存心

何かに依存する心理が、怒りの原因になることがある。

例えば、依存している対象から依存を許さないことを告げられた時などに、怒りが依存対象に向かうという現象が見られる。

昨今の「カリスマ的なリーダーを待望する風潮」と「公務員バッシング」もこれと同じ心理の反映であるという側面がある。

バブル崩壊後の日本では、何かがおかしい、何かがうまく行っていないという漠然とした雰囲気が共有されている。しかし、その原因は何なのか、どうすれば解決できるのかということについての具体的な指針は共有されていないし、一人ひとりの中で具体化もされていない。漠然と問題があることだけが感じられる。その問題は、自分や身近な人びとでは解決ができないと感じている。誰かに打破して欲しい、解決して欲しいという依存心が生じがちになる。

それを反映しているのが「強いリーダー」とか「リーダーシップ」といったものを待望する機運である。小泉が首相の座に登りつめるときにも、この心理が作用したし、彼がリーダーを演じている間もそうだった。その後には、彼ほどのカリスマ性を持つリーダーが国政には現れていないから、常に不満を感じて支持率は低いままになっている。橋本徹がやたらと一部で支持されているのも、これと同じ「リーダー待望心理」という依存心によるものであると解釈できる。

「公務員バッシング」は、かつては(90年代前半頃)高級官僚(あるいは、その候補生としてのキャリア組)を対象としていたものだが、それが繰り返されるうちに、大衆へと一種の「常識」として広がり始め、それに伴い、次第に対象が拡大されてきた。

これも「誰かに解決して欲しい」という依存心が根底にあると読める。つまり、「誰かに解決して欲しい」という思いが、「優秀であるとされていた、あるいは、権力を持っているはずである『官僚』がきちんと問題を解決するべきだ」という責任の押し付けに転化し、漠然とした問題が常にある感覚の中で、何か具体的な事件をきっかけに「官僚が悪い」(それがより広く解釈されて「公務員が悪い」になる)と攻撃の矛先が向かう。何をすべきかを支持するのは主権者とその代表である議員であるはずであるにもかかわらず、ここでは主権者としての責任は放棄されている。自分は悪くないのに官僚が悪いことをしているから自分の生活は何かおかしい、という発想が常識化している。そこには本人には気づかれていない依存心がある。

私は「平均的な大衆」にこの「依存心」を克服することを訴えはしない。道徳的な訓戒として指摘することくらいはしてもいいかもしれないが、彼らを一気に変えることなど不可能であると考えるからだ。私は一定水準のVernunft(理性)を持ち合わせた人びとに対して訴えたいと思う。「魅力的な政策を考えよう」と。

そこで生まれる理論が政策を実現するための運動に繋がり、それが政治家にも波及するような動きを作り出すことは、個人の力では不可能である。しかし、ネットワークを通じてこれを広めていくことは多分に偶然的な要素が絡んでくる。まずは不動的なコアとなる理論・理念・政策を確定することである。運動の中から、運動を行うことから思想が生まれてくることがある。だから、運動を行うことは何であれ否定はしない。

しかし、運動家と接して思うのは、彼らには十分に熟考され、練り上げられたプログラムが欠けており、場当たり的になりがちではないかということだ。場当たり的な運動が向かう矛先は、「敵対勢力への反対」になりがちではないか、とも思う。ブログなどの言説を見ても、明らかに「敵対勢力への反対・批判」のための言説が政治に関しては非常に多い。そうした運動は、そこで満足してしまうことがさらなる前進を阻むのではないかと思う。

どちらかというと、理論を重視する傾向のある私の趣味の問題もあるが、私としては今どのような政策が必要なのか、今、世界はどのような体制に移行しようとしており、それはどのようなものであるのが望ましいのか、ということをはっきりさせたいと思っている。
by zarathustra1883 | 2008-11-03 17:52 | 思想
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